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(富士が丘、上深田、池尻)

2024年 3月 15日 金曜日

花山法皇の足跡 ~書写山・円教寺編~


投稿者:ささえあいふじ

■次の投稿も併せてご覧ください。

花山法皇の足跡 ~三田市・花山院編~

・源氏物語関連の投稿一覧は末尾にあります。

 

 

■花山法皇の出家(寛和の変)

・紫式部が主人公のNHK大河ドラマ「光る君へ」で花山(かざん)天皇の出家が取り上げられています。

・第65代天皇である花山天皇は、藤原氏の策謀により986年(寛和2年)6月22日に19歳の若さで出家されました。

・花山法皇は兵庫県三田市の花山院に隠棲されたので、三田市には縁が深い御方です。花山院に御廟所がありますが、宮内庁HPによると御陵は京都市にあります。

・三田市や姫路市での花山法皇の足跡を筆者が歩いた範囲でまとめました。

 

 

■花山法皇と性空上人

・書写山円教寺の性空(しょうくう)上人は、平安時代中期にもっとも崇敬を受けた高僧の一人で、多くの人が書写山に参詣しています。

・貴族としては、花山法皇、後白河法皇、和泉式部などが、性空上人との結縁(けちえん)を求めて参詣しました。

・円教寺は圓教寺号を賜って花山法皇の御願寺となり、大講堂が造立されました。

 

 

 

■花山法皇の書写山行幸と西国巡礼

・以下の説明は書写山円教寺(書寫山圓教寺、しょしゃざん えんぎょうじ)のHPにもとづいています。

・一般に行幸は天皇の外出を意味し、御幸は上皇・法皇・女院の外出を意味しますが、次のサイトでは行幸を用いています。

・古い時代には行幸と御幸は厳密に区別されなかったようなので、次のサイトのとおり行幸を使用します。

・ただし、地名・橋名は現在の「御幸」になっています。

 

 

★花山法皇と性空上人

西国札所 – 書寫山圓教寺 (shosha.or.jp)

 

 

 

花山法皇はその生涯において、書写山円教寺に二度行幸されました。

◆一度目の行幸は986年(寛和2年)で従者は十数人の微行でした。

・06/22 退位・出家、07/23 京都出発・陸路、07/27深夜に書写山麓到着、07/28性空上人と対面、07/29夢前川河口の英賀から船で還幸

 

◆二度目の行幸までの16年間に、花山法皇は徳道上人が開始して中断していた西国霊場三十三ヶ所(観音霊場)を巡拝され、各寺で詠まれた和歌が御詠歌となったことで、西国霊場巡拝が盛んになりました。花山法皇は西国巡礼中興の祖と言われています。

 

◆二度目の行幸は1002年(長保4年)で従者は84人の盛大なものでした。HPの「播州書寫山縁起」には鳳輦と行列が描かれています。

・03/05 海路で飾磨津到着・弥勒寺へ、03/06弥勒寺滞在、03/07性空上人を伴って書写山へ、その後飾磨津から還幸

・弥勒寺は性空上人が隠居後に住まわれていた寺で、書写山の北に位置します。

 

 

 

 

■参考写真(写真をクリックすると拡大表示できます)

・二度目の行幸に関連する写真です。

・パソコンよりもスマホの方が画素密度が高いためきれいに見えます。

・4Kテレビで見ると、くっきり鮮やかに見ることができます。

 

 

◆飾磨津(しかまつ、現在の姫路港)

・花山法皇が上陸された飾磨津に御幸橋と御幸(ごこう、現在の兵庫県姫路市飾磨区御幸)の地名が現存しています。

・下記①~④の写真は姫路市飾磨区御幸で、2024/03/10に撮影しました。

 

①御幸(ごこう)の住所表示

②御幸の公民館と祭りの屋台蔵

・屋台蔵の戸に「御幸」の文字が表示されています。

③~④御幸橋(ごこうばし)

・花山法皇が渡られたと伝わる橋です。

 

 

 

◆彌勒寺(みろくじ、兵庫県姫路市夢前町寺)

・弥勒寺は書写山の北側に位置します。

・兵庫県立ゆめさきの森公園の山歩きの際に撮影しました(2015/10/06, 2016/03/24)。

 

★弥勒寺HP

弥勒寺の沿革、弥勒菩薩 (tsuhozan-mirokuji.com)

 

 

⑤~⑥山間にある弥勒寺

・「兵庫県立ゆめさきの森公園」の尾根上から撮影

・中央が弥勒寺です。下段にゆめさきの森公園の駐車場の一部が見えています。

 

⑦弥勒寺

・左下が御幸橋

 

⑧~⑨弥勒寺の説明板

 

⑩本堂

 

⑪~⑫開山堂と説明板

・性空上人を祀る御堂です。

 

⑬性空上人・供養塔

 

 

 

 

◆書写山・東坂登山口の石碑

・下記⑭~⑯の写真は2024/03/10に撮影しました。

 

⑭「花山天皇 後醍醐天皇 駐輦之處」の石碑

・鳳輦(ほうれん)が止められた場所です。鳳輦は屋根の上に金色の鳳凰(ほうおう)の飾りをつけた輿(こし)です。

・上記「花山法皇と性空上人」の書写山縁起絵巻に、花山法皇御幸の行列や鳳輦の絵があります。

 

⑮石碑の拡大写真

・後醍醐天皇は1333年、隠岐島を脱出され京都に戻られる際に書写山に立ち寄られました。

 

⑯説明板

 

 

 

◆書写山圓教寺

・次のサイトをご覧下さい。

・写真㉕~㉖が性空上人像と説明板です。

書写山圓教寺 ~西の比叡山とも呼ばれる古刹~

 

 

 

◆六甲山上(雲ヶ岩・心経岩)

・下記写真はハイキングの途中に撮影しました(2016/10/30)。

⑰六甲山の上美術館

・この前を通ります。

 

⑱雲ヶ岩・心経岩への道標

・右の踏み跡を登ります。

 

⑲心経岩

・法道(ほうどう)仙人が般若心経を刻んだ大岩です。法道仙人はインド渡来の人で、西国霊場の播州清水寺・法華山一乗寺・三田市の花山院など多数の寺を開きました。

 

⑳六甲比命大善神(六甲比命神社)

・左上は六甲比命大善神の社殿です。

 

㉑六甲比命大善神の社殿

・大岩に寄り添うように建っています

 

㉒雲ヶ岩への階段

・頭上や足元に注意しながら登ります。

 

㉓~㉔雲ヶ岩

・法道仙人が修行中に紫の雲に乗った毘沙門天がこの岩上に現れたという伝説があります。

 

㉕仰臥岩への道標

 

㉖~㉗仰臥岩

・大岩の上に石祠と、「崋山法皇、熊野権現、佛眼上人」と刻んだ岩があります。

・佛眼(ぶつげん)上人は河内石川寺(叡福寺)の僧で、花山(崋山)法皇の西国巡礼を案内しました。

・花山法皇がこの地に来られたかどうかはわかりません。付近は修験道と関係が深い六甲山吉祥院多聞寺の奥ノ院なので、来られた可能性はあります。

・付近は大岩が多いですが、どれが仰臥岩か不明です。

★六甲修験道については次のサイトをご覧ください。

六甲修験道 ~古の修験者が歩いた山道~

 

㉘道標

・矢印の方へ進むと車道に出ます。

 

 

 

 

■紫式部・源氏物語関連の投稿一覧

 

【前編】村上帝社、関守稲荷、現光寺(源氏寺)

・現光寺は須磨に蟄居した光源氏の住まいとして知られています。

・光源氏は小説の主人公で架空の人物なのに、なぜこのように言われているのか不思議です。

 

【中編】須磨寺

・須磨寺には源平の庭の近くに光源氏が植えたという「若木の桜」と伝えられる桜の木があるそうですが、今回は見落としました。

 

【後編】須磨離宮公園(月見台・行平月見の松・梅園)、松風村雨堂

・光源氏のモデルとも言われる在原行平が月見をした月見台・月見の松や、行平が愛した松風村雨姉妹ゆかりの松風村雨堂を巡ります。

 

【別編】源氏物語 須磨の巻・歴史散歩 ~多井畑厄除八幡宮~

・須磨配流中の在原行平や、一ノ谷合戦前の源義経が日本最古の厄除けの霊地である多井畑(たいのはた)厄除八幡宮に祈願したといわれています。

・在原行平が愛した松風村雨姉妹は多井畑の村長の娘で、鏡の井や墓が今も残っています。

・古来、多井畑は交通の要衝で、すぐ西に摂津と播磨の国境がありました。

 

源氏物語 明石の巻・歴史散歩 ~明石藩主の想定地~

・江戸時代の明石藩主で文学好きだった松平忠国候が、源氏物語の「浜の屋形」と「岡の屋形」の想定地を考え歌碑などを設置したため、現在も訪れることができます。

 

花山法皇の足跡 ~三田市・花山院編~

・第65代天皇である花山天皇は、藤原氏の策謀により986年(寛和2年)6月22日に19歳の若さで出家されました。

・花山法皇は兵庫県三田市の花山院に隠棲された寺として有名で、西国霊場の番外札所なので多数の参詣者があります。

 

花山法皇の足跡 ~書写山・円教寺編~

・書写山円教寺の性空(しょうくう)上人は、平安時代中期にもっとも崇敬を受けた高僧の一人で、多くの人が書写山に参詣しています。

・花山法皇は性空上人との結縁(けちえん)を求めて書写山へ行幸し、円教寺は圓教寺号を賜って花山法皇の御願寺となり、大講堂が造立されました。

 

紫式部の足跡 ~山歩きで見た説明板~

・京都市の小塩山、福井県越前市の日野山へ登ったときの記録です。

 

=以上=