花山法皇はなぜ花山院(現・三田市)に隠棲されたのか? ~ある仮説~
■東光山花山院菩提寺(兵庫県三田市尼寺)
・花山院は第65代天皇の花山天皇が晩年に隠棲された寺として有名で、西国霊場の番外札所として多数の参詣者があります。
・花山法皇は徳道上人が開始して中断していた西国霊場三十三ヶ所(観音霊場)を巡拝され、各寺で詠まれた和歌が御詠歌となったことで、西国霊場巡拝が盛んになりました。花山法皇は西国巡礼中興の祖と言われています。
・今回は、西国霊場を巡拝された花山法皇が、なぜ花山院を隠棲地に選ばれたのかを考えてみました。
★花山法皇御廟所(花山院境内、2019/08/26撮影)
★花山院HP
花山院菩提寺 | 公式ホームページです。 (kazanin.jp)
・交通機関については、HPのアクセスマップをご覧ください。
■花山法皇が兵庫県三田市の花山院を隠棲地とされた推定理由
・数ある西国三十三ヶ所と番外札所の中で、なぜ花山院を隠棲地とされたのか不思議です。
・以下は根拠がありません。筆者が勝手に推測したものです。
①花山法皇が結縁された性空上人ゆかりの書写山圓教寺に近い。
・若くかつ困難な状況にあった花山法皇にとって、性空上人はこの上ない精神的支柱でした。
・圓教寺は花山法皇の勅願寺で縁の深い寺です。
②摂津の国にあり畿内(当時の首都圏内)に位置する。
・当時の貴顕の人々にとっては都に住むことが重要でした。
③自然に恵まれ、広大な景色が見える。
・花山院は標高421mの低山の山頂直下(標高390m付近)に位置し、自然の真っ只中にあります。
・境内からは、北摂の山並、六甲山地、丹上山系、播磨の山並をはじめ、遠く瀬戸内海や小豆島まで広大な風景を見ることができます。
④花山院から書写山が見える。
・正確な地図がなかった時代に、花山法皇がこのことを知っておられたかどうかわかりません。
・しかし、書写山は平安時代末期の流行歌集「梁塵秘抄」に記載されているように、当時は「聖の住処」として有名な山だったので、知る人は知っていたかもしれません。
・また、修行により法力を得られたという花山法皇にはよく見えていたかもしれません。
★国土地理院地図の確認
・花山院から書写山頂までの直線距離は約54kmで方位264.5度(ほぼ西)です。
・花山院展望所と書写山頂間の断面図を描くと、他の山に邪魔されずに見通せることがわかりました。
・書写山は標高371mのなだらかな山です。
★花山院の展望所から撮った写真(2019/08/26撮影)
・次の写真右上に薄っすら見える高みが書写山頂であると思われます(ピンクの線の下)。
・上段の白い建物群は三田市テクノパークの企業群です。
・左下の水面は「三田市の水がめ」千丈寺湖です。
■紫式部・花山法皇・源氏物語関連の投稿一覧
・現光寺は須磨に蟄居した光源氏の住まいとして知られています。
・光源氏は小説の主人公で架空の人物なのに、なぜこのように言われているのか不思議です。
・須磨寺には源平の庭の近くに光源氏が植えたという「若木の桜」と伝えられる桜の木があるそうですが、今回は見落としました。
③【後編】須磨離宮公園(月見台・行平月見の松・梅園)、松風村雨堂
・光源氏のモデルとも言われる在原行平が月見をした月見台・月見の松や、行平が愛した松風村雨姉妹ゆかりの松風村雨堂を巡ります。
④【別編】源氏物語 須磨の巻・歴史散歩 ~多井畑厄除八幡宮~
・須磨配流中の在原行平や、一ノ谷合戦前の源義経が日本最古の厄除けの霊地である多井畑(たいのはた)厄除八幡宮に祈願したといわれています。
・在原行平が愛した松風村雨姉妹は多井畑の村長の娘で、鏡の井や墓が今も残っています。
・古来、多井畑は交通の要衝で、すぐ西に摂津と播磨の国境がありました。
・江戸時代の明石藩主で文学好きだった松平忠国候が、源氏物語の「浜の屋形」と「岡の屋形」の想定地を考え歌碑などを設置したため、現在も訪れることができます。
・第65代天皇である花山天皇は、藤原氏の策謀により986年(寛和2年)6月22日に19歳の若さで出家されました。
・花山法皇は兵庫県三田市の花山院に隠棲された寺として有名で、西国霊場の番外札所なので多数の参詣者があります。
・書写山円教寺の性空(しょうくう)上人は、平安時代中期にもっとも崇敬を受けた高僧の一人で、多くの人が書写山に参詣しています。
・花山法皇は性空上人との結縁(けちえん)を求めて書写山へ行幸し、円教寺は圓教寺号を賜って花山法皇の御願寺となり、大講堂が造立されました。
・京都市の小塩山、福井県越前市の日野山へ登ったときの記録です。
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