裕福な地域だった三田 三田の歴史基礎講座「近世の三田」
そもそも何故、近世と呼ぶのかで始まった今回の第3回「近世の三田」の講座が開催されました。
主催:三田の「魅力探検寺子屋」、富士が丘魅力あるまちづくりサークル
今回の講座でも、「裕福な地域であった三田」と大変興味をひく説が出てきました。
<2月21日(土) まちづくり協働センター
講師:三田市生涯学習支援課 印藤参事 様>
<講座内容のレジメ>
1、近世とはどのような時代か
○近世のはじまりとして太閤検地(1954年)
⇒中世の荘園制が否定され太閤検地が始まった
(三田の古文書 おまつりの責任者名リストに検地があったと記録されている)
○近世の終わりをいつとみるか
⇒大政奉還(1867年)、廃藩置県(1871年)、地租改正(1878年)
2、三田は裕福な地域であったのではないか?
■三田は3万6千石の農村と言われるが、そうでは無く播磨、丹波、摂津の国の交通を結ぶ結節点として、流通産業が栄え、また国土の6割が森林であり森林業としても繁栄していたのではないだろうか。
(森林業としては木材を武庫川を通じて尼崎あたりまで輸送している)
これらは3万6千石の米の課税対象外であり三田藩の有力な財力となったのではないだろうか。
3、江戸時代の三田
■川辺郡域の歩み
■有馬郡域の歩み
4、九鬼氏の異動について
■鳥羽時代の九鬼氏といわゆる「お家騒動」
<会場の様子>
今回も定員100名を超える参加者があり、みなさん地元三田の歴史に対する関心の高さがわかりました。
次回は3月14日(土曜日)三田の歴史基礎講座最終回の第4回「近代の三田」を開催予定しています。
(当講座は既に満席で申し込みは終了しています)
以上