歴史回廊だった三田 三田の歴史基礎講座「中世の三田」
<平成27年1月10日(土曜日)、キッピーモール6階まちづくり協働センター 講師:三田市生涯学習支援課 印藤昭一
主催:三田の「魅力探検寺子屋」、富士が丘魅力あるまちづくりサークル>
<地政学から見た地図上の三田>
下記、赤くマルで囲った部分が三田
上の緑の部分が西で播磨平野(西方)、左下の緑の部分が東の摂津大阪平野(東方)に繋がり赤丸の部分が三田。
左の青い部分は瀬戸内海。
この様に三田は播磨の国と摂津の国を結ぶ回廊となり歴史の最前線となったのでは、ないだろうか。
<中世 荘園制の三田>
藍荘、野鞍荘、三箇荘、小野荘、高平荘、多田荘、松山荘、金心寺荘、貴志荘、中内上荘、青海野荘
歴史上の事件(例)
■承久の変(後鳥羽上皇と鎌倉幕府との戦い)での三田
三田は西方(後鳥羽上皇側)に多くがついていたが、敗れ東方の関東勢力(鎌倉幕府)が三田に進出し治めていった。
当時の古文書 承久3年 藍荘を藤原憲政(関東)が任される
■後の南北朝の争いでも 三田は南朝・北朝せめぎあいの場となった。
(北朝忠臣 貴志五郎四朗義氏 貴志地区)
■また、室町時代は赤松氏が台頭するなど東方、西方勢力の歴史の最前線となった。
(注)上記、説明は受講者の想像を加えたものであり講師の説明を超えている部分があります。
<講師 三田市生涯学習支援課 印藤昭一先生>
<会場の様子 今回も定員100名を超える受講者数となりました>
以上