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2020年 10月 7日 水曜日

びわ湖疏水船乗船記 ~明治時代に日本人だけで成し遂げた大土木工事~


投稿者:ささえあいふじ

■びわ湖疏水船

びわ湖疏水船は、琵琶湖疏水を通航する観光船です。

令和2年10月5日(月)に滋賀県大津市から京都市の蹴上(けあげ)まで、びわ湖疏水船に乗ったときの記録をご紹介します。

 

 

★びわ湖疏水船HP

https://biwakososui.kyoto.travel/

 

 

 

■琵琶湖疏水(びわこそすい)

琵琶湖疏水は、明治維新により疲弊していた京都振興を目的として、用水確保、舟運、エネルギー確保のために建設された水路です。明治18年6月着工、明治23年4月竣工。工費は当時のお金で125万円(現在の約1兆円に相当)。

 

琵琶湖疏水工事は、琵琶湖の水を滋賀県大津市から京都市の鴨川まで流すために、山にトンネルを掘り、水路を開削するという前代未聞の大土木工事でした。エネルギー確保においては、蹴上水力発電所を建設し世界で2番目に水力発電を行い、その電力でインクライン(傾斜鉄道)を動かし、標高差約36m、長さ約582mの斜面で舟を昇降させました。

 

外国人のお雇い技術者の指導による土木工事が当然だった時代にあって、琵琶湖疏水工事は設計から施工まですべて日本人による工事だった点は特筆すべきことでした。しかも、緻密な計画と工事により、世界的にも称賛される見事な成果を得ました。

 

琵琶湖疏水の稼働開始により、京都は息を吹き返し、生活も経済活動も大きく進展しました。まさに京都にとって琵琶湖疏水は起死回生の大プロジェクトだったのです。

 

★京都市上下水道局 琵琶湖疏水

琵琶湖疏水の詳細な紹介が記載されています。

https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000006469.html

 

 

 

■琵琶湖疏水建設に寄与した重要人物

●北垣国道(きたがき くにみち)

琵琶湖疏水工事実施を決断し、困難な状況下で力強く推進した京都府知事です。現在の兵庫県養父市出身で、尊王討幕の志士でした。

 

●田辺朔郎(たなべ さくろう)

工部大学校(東京大学の前身)で土木工学を学び、琵琶湖疏水に関する卒業論文を作成しました。不撓不屈の強い意志と明晰な頭脳をもった田辺朔郎は、工部大学校卒業後すぐに京都府に採用され(当時21歳)、琵琶湖疏水工事の主任技師となり、設計と施工管理の両方を成し遂げました。

 

明治時代の数々の土木工事を成功に導いた田辺朔郎は、蹴上の近くにある大日山墓地に妻(北垣国道の長女)とともに眠っています。この墓地は、死後も京都を守ってほしいとの願いを込めて京都市から贈られたものです。

死後も京都を守ってほしいとの願いを託された人物は、征夷大将軍・坂上田村麻呂と、田辺朔郎ぐらいではないでしょうか(断定できませんが)。

 

 

 

 

■参考写真(写真をクリックすると拡大表示できます。2020/10/05撮影)

 

 

①大津閘門(こうもん)

琵琶湖の近くに位置します。閘門はパナマ運河の閘門と同じで、琵琶湖疏水側と琵琶湖川の水面の高さを調整して、舟を運航可能にするための設備です。現在、舟運は行われていないので、閘門(左側)は使われていません。現在は疏水の水が右側を通って流れています。琵琶湖側から撮影。

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②びわ湖疏水船

手前の船は私たちが乗ったこの日の下り1便の「れいわ号」、奥からやって来たのは「へいせい号」です。定員は14名で、内訳は旅客12名、操船者2名です。下りの所要時間は55分です。

疏水を遡航する舟を人力で引っ張るために、疏水の両側はトンネル内を除いて歩道があります。

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③へいせい号が方向転換中

真ん中の狭い水域を使って、あっという間に見事にUターンしました。

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④れいわ号

客が乗船前の船です。座席の青い物体は、腰に巻くタイプのライフジャケットです。左端にガイド用の茶色のクッションが見えています。船の屋根は雨用ではなく、トンネル内で天井から落ちるシャワー対応用です。

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⑤発進直前の疏水船から見た風景

前方に第一トンネルの入口があります。見た目の疏水の流れは速いです。流速を測定した人のブログによると、時速4~5kmであるそうです。

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⑥第一トンネル入口で、トンネル内の白い点は出口です。写真左の白いポールは疏水船の先端に立つものです(操船の目印用?)。

当時日本最長の第一トンネルは全長約2436mで、日本初の竪坑方式(山上から竪坑を掘削し、トンネルの中程からも掘削する方式)で掘られました。

トンネル入口の上に伊藤博文の揮毫による「気象萬千」の扁額が見えます。琵琶湖疏水のトンネルの両端には維新の元勲などの揮毫による扁額が掲げられています。大津側は陰刻(文字が窪んでいる)、京都側は陽刻(文字が浮き出ている)です。

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⑦第一トンネル内部

トンネル出口が白く見えています。右上に電気ケーブル、右横にロープがあります。ロープは上り方向の舟の船頭が手で手繰って舟を進ませるためのものです。舟は夫婦船が多かったそうで、夫がロープを手繰って舟を引っ張り上げ、妻が操船しました。

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⑧北垣国道京都府知事の揮毫「宝祚無窮」

北垣府知事は目立つことを嫌い、トンネル内部に揮毫を設置したそうです。宝祚無窮は皇位が永遠であることを意味します。

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⑨竪坑から入る光

深さ47mの竪坑から差し込む光が見えて感激しました。⑧⑨の写真はごく短時間、疏水船が停止してくれたので撮れました。疏水船すべてが停止するわけではないようです。

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⑩第一トンネル出口

左の棒が立っているところに、出迎え?のアオサギがいます。ガイドが「アオサギの次郎」と言ったように思います。

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⑪緊急遮断ゲート

阪神淡路大震災の経験を受けて、大地震による堤防決壊時に水流を自動停止するために設置されました。

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⑫諸羽トンネル

湖西線敷設の際に琵琶湖疏水のルート変更があり、1970年に新設されたトンネルです。両端の扁額はありません。

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⑬~⑭疏水風景

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⑮第二トンネル

水路上で最短のトンネルで約124mです。

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⑯日本最初の鉄筋コンクリート橋

奥に見えるのは第三トンネルです。

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⑰「本邦最初鐵筋混凝土橋」の石碑(写真⑯のすぐ近くにあり)

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⑱第三トンネル入口

上部は松方正義の揮毫による「過雨看松色」の扁額です。

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⑲第三トンネル出口

蹴上乗下船場が見えています。

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⑳蹴上乗下船場(蹴上船溜)

最後の客が下船するところです。

疏水で舟運が行われていたときは、ここが蹴上船溜で、舟は台車に載せられてインクラインを下りました。また、下の南禅寺船溜からは上りの舟が台車でここまで運ばれました。

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㉑第三トンネル出口の扁額

三条実美の揮毫による「美哉山河」の扁額です。

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㉒インクラインの台車

蹴上船溜と南禅寺船溜の間で、舟を載せて運んでいた台車です。インクラインは電気モーターで駆動されました。

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㉓疏水工事殉職者弔魂碑

17名の殉職者のために、田辺朔郎が自費で建立した慰霊碑です。

「一身殉事萬戸霑恩(いっしんことにじゅんじ ばんこおんにうるおう)」は田辺朔郎の自筆です。

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㉔インクラインの線路

南禅寺船溜へ向かって一直線に延びる約582mの線路です。インクラインのおかげで、旅客や貨物を乗せ替えることなく輸送できました。

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㉕田辺朔郎博士像

若き日の田辺朔郎像です。疏水工事の際はまだ学士でしたが、後に博士号を授与されました。

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㉖田辺朔郎の略歴

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㉗蹴上水力発電所への送水管

現在も関西電力の発電所として稼働中です。

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㉘南禅寺船溜の噴水

蹴上船溜との落差によって自噴する噴水です。噴水の手前の水面に、発電所からの放水が激しく流れる様子が窺えます。

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=以上=